うまげな話

オーディオと魚料理、さぬきうどんが好きな天邪鬼オヤジの日々

恩師を想う

昨日、僕の卒業した高校から同窓会報が届いた。学園創立50周年ということで、普段より分厚く、懐かしさも手伝って、楽しく読ませてもらった。
学園の創立者にして、理事長、校長、英語教員の3役を兼任されていた学園長(我々は「園長」と呼んでいた)は僕にとって、かけがえのない恩師である。中学から6年間英語の授業を担当していただいたが、それは怖かった。想像を絶する恐怖で、指名されて、正しく答えられないものなら、容赦なく「愛のムチ」が炸裂した。単語テストで8割取れないと、堅い木製の棒で尻を何発も、腫れ上がるくらい叩かれた。あまりの辛さに学校を去っていく同級生も少なくなかった。僕達は徹底的に鍛え上げられた。このあたりは同窓会報に多くの先輩、後輩が書かれている。なかでもフリーカメラマンとして活躍されているM氏の寄稿が象徴的であった。
園長先生は32歳の若さで、学校を設立され、その激務のせいか、52歳の若さで急逝された。いわゆる実績のない私学が名を上げるには東大をはじめ、有名大学への進学実績を上げるのが一番である。もちろんそんなことは意識されておられたであろうし、実際、僕達も在学中には常にハッパをかけられてきた。そうはいいながら、園長先生の本心は成果主義のような軽薄で、商業的ななものではなかったように感じられることが多かった。その証拠に、Thomas Hardyの原書を読ませたり、ドイツ語の授業があったりと、いわゆる受験勉強という観点からすると極めて効率の悪い授業が多かった。また、個々の生徒に対しても、絶対的な存在であったのは事実だが、僕のようなちょっと生意気な天邪鬼を、怒りながらも温かく見守っていただいた気がする。鬼のような園長先生の授業や授業中のお話から僕が得た薫陶は大きかった。本当によく怒られ、どつかれた。しかし、高校を卒業し、大学入学後もアルバイトを紹介して頂いたり、本当に可愛がっていただいた。
今、園長先生がなくなられた52歳という年齢に自分が達して、いろいろな想いが巡る。先生が本当に目指されていたものは何だったのか?一言で表現することは難しい。「学問への畏敬に満ちた探究心」、「紳士たるべき真の教養主義」、「厳然たる態度と表裏一体のヒューマニズム」等々、いろいろ言葉が浮かぶ。
ただ、確かなことは今日の時代に流される目先の成果だけを求める教育とは一線を画していた。世の風潮、政治家や経済界の意向に振り回されず、「普遍性」「長期的視野」をもった教育を信条とされていたのではないだろうか?
昨今の教育に関するニュース、著名人の発言を聞いていると特にそう感じてしまう。
懐かしさのあまり、少しセンチメンタリズムが過ぎたような気がするが、今後とも我が母校が時流に流されることなく、発展されることを期待したいと思います。