うまげな話

オーディオと魚料理、さぬきうどんが好きな天邪鬼オヤジの日々

改めて車社会について考える

悲しいニュースを見た。18歳の大学生の無謀な運転が原因で、歩道にいた3人の看護師の方が亡くなった。僕は天邪鬼な性格で、免許は一応持っているが、車には乗らない。車が今日の日本の経済的成長に寄与してきたこと、人々の生活を豊かにしてきたことは否定できないが、負の側面がどうも忘れられがちな気がする。車の一番良くないところは「公道」という公の場に、堂々と「私的空間」を持ち込むことである。最近の車は大型化し、まさに動く生活空間化している。遠方に住んでいる友人の言葉が気になった。「子供が3人もいるから、新幹線では帰省できない。電車の中で騒いだら困る。でも車の中なら心配はいらない・・・」。僕が子供の頃は、車は一部の金持ちの所有物で、多くの庶民は電車等で移動していた。そのような環境の中で、「お年寄りには席を譲る」とか、「騒いだり、暴れたらダメだ」とか、「時には知らない怖いおじさんに怒られる」とか、「予想もしない親切を知らない人から受ける」といったような様々な体験をしながら、社会的規範を身につけていったものだ。車社会になってから、若者はもとより、いい大人でもこのような社会性が身についていない人が目に付くようになった気がする。車社会が「公共の下での個人の在り方」を意識しる機会を奪っているように思える。また車を運転してる時、他の車に対して皆さん苛立ちを見せたり、腹を立てたりしてることが多いように思えます。これも「公道」という公の場にいるのに、自分は車という「私的空間」にいるからなんでしょうね。亡き母は僕が大学生のころバイクを買う時にローンの保証人になってはくれましたが、車を所有することは認めませんでした。理由は「車は人を殺す可能性があるから」でした。「バイクも人を殺す可能性はないとは言えないが、極めて少ないから認めてもいい。」ということでした。身内の安全より、他人の安全を優先していた母はひとかどの人物だったと思います。